2015年7月31日金曜日

De la Costa (1955), "Review: Democracy Survives Crusade In Asia: Philippine Victory" (by Carlos P. Romulo)

Democracy Survives Crusade In Asia: Philippine Victory (by Carlos P. Romulo), Review Author: H. de la Costa, Philippine Studies, vol. 3, no. 3 (1955): 317–319

書評。大戦、及び戦後の混乱や政治腐敗、共産主義の脅威の中をフィリピン民主主義がいかに生き残ったかについて、特に(名前を挙げていないがマグサイサイ)大統領のような新しいタイプの政治家の登場による信頼の回復について述べているという。デ=ラ=コスタは「新しいタイプの政治家」という時にロレンソ・タニャーダ上院議員についての言及がない点を挙げて問題視している。また、著者が述べるように私見を主観的に率直に述べるというのもよいが、客観的な記述を求める読者は期待はずれであろうし、自身としても歴史家としてはもっと冷徹な現実の叙述を求めたいところだ、と述べている。

De la Costa (1955), "Review: A First Printing: Ordinationes Generales" (by Fr. J. Gayo Aragón, O.P.)

A First Printing: Ordinationes Generales (by Fr. J. Gayo Aragón, O.P), Review Author: H. de la Costa, Philippine Studies vol. 3, no. 2 (1955): 214–216

1604年に初めて活版印刷されたとされる、フィリピンに赴任するドミニコ会士に対する指導書の復刻本についての紹介。資料の性格について簡単に紹介している。

デ=ラ=コスタのPhilippine Studiesの1954年投稿分の残りについて

Vol. 2, No. 4には
"A Marian Festival in Manila, 1619" (pp. 317-323)があるはずなのだが、リンクミスで別のものが出てきてしまう。残念ながらあきらめざるを得ない。

Vol 2, No 4 (1954)

2015年7月30日木曜日

De la Costa (1954), "Episcopal Jurisdiction in the Philippines in the 17th Century"

Horacio de la Costa, "Episcopal Jurisdiction in the Philippines in the 17th Century", Philippine Studies vol. 2, no. 3 (1954): 197– 216

 以下は主に、読書メモ、要約のようなものである。本来以下のような内容は既に頭に入っているのが望ましいが、お恥ずかしながらまだまだうろ覚えなので、勉強を兼ねて要約する。このトピックが耳新しい方の参考になれば幸いである。
 但し、最後に少し分析上の論点を思いつくままに挙げている。

***

 フィリピンにおいて16世紀後半以降宣教が順調に進み、マニラ大司教区をはじめ教区の形成が順調に進んだ。これに伴い、トリエント公会議で定められた、司教の管轄権、具体的には原則として小教区を傘下の在俗司祭に当たらせること、及び修道会は当該地域の司教の指導下に服し、修道会司祭が治める小教区が定期的に司教の査察を受ける(但しあくまで小教区の管轄指導の適切性の問題に限り、修道会士としての適性等については管轄外)ことの実行が問題となった。

 フィリピンは16世紀においては宣教地であり、キリスト教布教には、アウグスティヌス会、ドミニコ会、イエズス会、フランシスコ会等の修道会が当たってきた。彼ら修道会、マニラ大司教、スペインの王権、総督府などの植民地当局の間には、宣教と統治をめぐる緊張関係があり、この教会管轄権問題はそことの関わりで重要な問題となった。

 特にデ=ラ=コスタは、一方でトリエント公会議において司教の小教区査察権が認められながら、その後スペイン植民地(具体的にはラテン・アメリカの植民地)においてその実行の困難が訴えられ、それを踏まえて教皇が特例を出したたため、教会法上の論争の余地が残ったことが、フィリピンにおける、修道会士が小教区司祭となっている小教区の管轄をめぐる、特に司教と修道会管区長の間の対立の背景にあることを指摘している。

 デ=ラ=コスタの一連の教会史研究の中でも、この問題は重要なものとして繰り返し取り上げられた。ここでは17世紀について二段階に分けて論じている。

<第1段階>

 1621年にマニラ大司教セラーノ(アウグスティヌス修道会出身)が提起した司教による査察権の主張に端を発する。
 セラーノは原住民から、修道会司祭による住民への不公平な取扱いがあるとの訴えを受け、査察の必要性を王に訴えた。翌年には、セラーノは教皇が出したという特例は暫定的で、王権のその後の意向の変化を踏まえれば今では無効であるとし、司教の監査権を押し立てて、マニラのディラオ小教区(現在のパコ)から査察を始め、住民に意見を募った。特に司教は司祭による財務・金銭管理上の不正や不法な社会慣行の許容などの告発が上がることを期待した。
 ディラオの司祭が査察を拒絶すると、司教は破門(陪餐停止)処分をもって応え、司祭がこれを拒絶すると監禁処分とした。ところがアウデンシア(王立最高司法院)はこれを支持せず、孤立した司祭は査察計画の撤回を余儀なくされたという。

<第2段階>
 以上の事態と関連のやり取りの中で、植民地当局は統治の維持のために、各地に派遣されスペイン統治を代表する修道会(士)の協力が不可欠と考え、司教の意向に加担しなかった。
 しかし他方で教皇庁はトリエント公会議の決定に基づいて教会の位階制的な統合を図る意向を強めており、修道会に対する特例も、宣教初期の段階が終われば速やかに終了とする意向を示していて、これがスペイン王権に影響を与えていた。 またスペインの王権も植民地統治の強化のため、修道会の自律性の高い管轄権は、王権による教会保護(パトロナート・レアル)の遂行上望ましくないと考えるようになった。但しフィリピンの植民地当局同様、本国も修道会の、特に地方における治安維持上の貢献を重く見、彼らを保持することを前提として管轄権を推し進めることを期待した。また小教区司祭を立てるに際し、王権保護の関与を求める法令を1624年に出している。
 しかしこれは実行困難であり、修道会の反発を受け、教皇庁は修道会の特権を破棄する勅令を1625年には撤回した。1629年には、司祭の任命が修道会の独断で進められていることを非難した王権は、司祭の任命に際しては3名の候補を総督府に示し、総督府がその中から選び、司教が承認するようにすることを命じた(1624年の命令の確認)が、修道会側はおしなべてこれを黙殺した。

 1654年には植民地政庁が、1624、1629年の命令を実行するよう促した。これに対して、各修道会管区長は、以下の理由で、王権には恭順するが命令は実行不能、と回答した。
 (1) 世俗権力者である総督が修道会士を任命することは修道会のあり方と反する
 (2) 言語の多様性故に、各言語ごとの修道士の数が限られてしまうため、小教区司祭が空位になった時に3名の候補者を立てることは困難であるし、他方でマニラ大司教が、自らが知らない地域の次期司祭として複数の候補を挙げた場合に、誰が一番適性があるか判断できないはずである
 (3) 修道会士は世俗の法廷に訴えることが出来ず、信徒などから訴えられた場合に一方的に裁かれかねず、不当である
 (4) 管区長が特定の修道会士の免職の理由を総督に報告することは管区長の活動の自由に反し、修道会士の名誉を傷つける
 (5) 合わせると、修道会士は複数の異なる上長(管区長、司教、総督)を持つようなことになり、混乱を免れない
 しかし今回は総督府は強硬で、従わない修道会への給金拠出を拒否し、マニラ大司教は査察を強行、拒絶した修道会士を追放した。これに対して管区長たちは全修道会のフィリピンからの撤退宣言を持って応えた。このにらみ合いは1655年に植民地政庁側が折れ、植民地協議会が、フィリピンの現状を踏まえて修道会側の立場を認めることで決着した。
 1697-8年にも再度マニラ大司教カマチョによる査察の試みがあったが失敗に終わっている。

***

 歴史の叙述なので安易な価値判断を持ち込むべきではないだろうが、フィリピンの宗教性を論じる場合に、これらの過去が引き合いに出されることがあるから、論点だけでも挙げてみるとよいと思われる。

 恐らく最も重要な論点は、修道会士、(大)司教、植民地政庁、スペイン本国の主に四者を、フィリピンで支配を受ける庶民の観点からどう評価するかである。もちろん時代によっても、またフィリピンの中でも小教区ごとに事情は違ったのだろうけれども、ある程度全体的な絵をどう描くかは、歴史の現在への投影のような文脈の中で重要になってくる。

1)みんな悪者、というには、全体があまりに対立を、しかも住民の統治や利害をめぐる対立を繰り返している。

2)一方に、やがてフィリピン生まれの人々が加わるようになる在俗司祭(と彼らを監督し代表する大司教)の肩を持つ見方がある。

3)他方に、大司教と在俗司祭は植民地当局が影響力を行使するために操った駒であり、修道会こそ地道に宣教に献身し、人々を保護し、尊敬を受けてきた、という点を強調する見方もある。

4)そもそも教会の内紛自体が見苦しく、植民地当局が調停努力をした点を強調する見方もありうる。

5)フィリピン植民地内でのいわば利益の山分け競争に対し、本国がけん制している、という観点もありうる。

 この項目はすでに長いので、ここでは特にこれを統合しようと思わない。こうした様々のアングルがあり、歴史家の思想傾向やイデオロギー、立場が、こうした点のニュアンスをどう書くかの中に反映されやすいのではないか、という点だけを指摘しておく。

2015年7月29日水曜日

H. de la Costa(1954), Review: "Soviet Policy in the Far East, 1944-1951 (by Max Beloff)"

Soviet Policy in the Far East, 1944-1951 (by Max Beloff) Review Author: H. de la Costa, Philippine Studies vol. 2, no. 2 (1954): 180–183

同じ号にJohn Schumacher, "Rizal and Blumentritt" が掲載されている。

この書評によると、紹介されている本のポイントは次の通りである。

この本はヤルタ会談からサンフランシスコ条約までのソ連のアジア政策の一貫性を検証したものである。特にすべてはやつらの計画通り、という陰謀史観的な見方ではなく、ソ連も不測の事態への応答として外交を進めてきたという見方に立っている。総じて言えば、ソ連の極東政策は、一方で大国としての側面と国際共産主義運動の中心としての側面の緊張関係にありつつも、一貫した目標の下で、個別の状況に一定の柔軟性をもって合目的に対応したものといえる、とする。

デ=ラ=コスタは人文科学を修めたイエズス会士として、こうした時事的な問題についての発言も多い。著作集4巻のうち一つは時事問題に関する巻である。ここでは反共の立場からソ連の外交政策の現状分析を評価しようとしている。

2015年7月28日火曜日

De la Costa(1953), "Review: Asian Nationalism and the West, Edited by William L. Holland"

Asian Nationalism and the West (Edited by William L. Holland), Review Author: Horacio de la Costa, Philippine Studies vol. 1, no. 3 (1953): 280–283

アジアのナショナリズムに関する論集のレビュー。特にインド、ベトナム、マラヤ、インドネシアの独立ナショナリズムと共産主義の関係について紹介している。反共のトーンもあるが、アジアの独立ナショナリズムを尊重するトーンで紹介されている。共産主義者だけではないベトナムの独立運動をフランスが抑圧し、それをアメリカが支援することがかえって共産主義者の主導権を強める、との分析や、インドネシアにおいて共産主義者の冒険主義が反発を受けているにもかかわらず、反響の流れでアメリカにくみすることを拒むのは、過去の植民地統治及び独立戦争を踏まえた外からの影響への拒絶反応ゆえである、といった分析が示される。それが書評されている本のトーンなのか、それともデ=ラ=コスタのトーンなのかは分かりにくいが、おそらく両方なのではないかと思いつつ読んだ。

同じ年の論文のひたすら植民者の視点を教会の視点、そして自身の視点と重ねて読んでいく理解を思い起こすと、その両者が彼の中でどのように同居していたのかが少々興味深かった。

De la Costa (1953), "The Legal Basis of Spanish Imperial Sovereignty"

このブログは、フィリピンの主な歴史家のフィリピン観を調べるために用いるものとする。当面は、Philippine Studiesのアーカイブから、まずはHoracio de la Costaの書いたものを順番に読み進める。主に資料を整理する目的である。


植民地資料に基づき、主にラテンアメリカとの比較、また島嶼部東南アジアに関する当時の研究を参照しながら、エンコミエンダ制導入の問題に始まり、コンキスタドレスと宣教師の間の衝突と、中国との交易による利益確保の中での調停、といった流れに触れ、その中でスペイン帝国の植民地支配の大きな特徴としての神学論争的な性格を確認している。