2015年9月8日火曜日

De la Costa (1958), "Review: The Philippine Revolution: The Political and Constitutional Ideas of the Philippine Revolution"

The Political and Constitutional Ideas of the Philippine Revolution (by Cesar Adib Majul), Review Author: H. de la Costa, Philippine Studies vol. 6, no. 4 (1958): 466–470

 Cesar Adib Majulの、現在ではフィリピン革命史研究の古典となった研究についてのレビューである。冒頭デ=ラ=コスタは、久々のフィリピン革命における知識人の研究の登場として出版を歓迎している。内容は以下の通り。

本書はプロパガンダ運動及びフィリピン革命の概論、及び二部の本論に分かれる。第一部は両運動の政治哲学の分析である。第二部はマロロス議会で生じた二大問題、政教関係及び政府と議会の関係についての考察である。終章で著者自身の結論が述べられる。

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第一部においては、リサール、ハシント、マビニの基本原理の共通性として、神の被造物たる人間の平等性、人間性の完成への志向、その達成のための市民社会、国家建設という目標などが挙げられ、そのために知的・道徳的な進歩の障害を除去することと、進歩を促進することが目指されるとする。政府の権威は人民の支持に基づき、被造自然の法則に則って運営されるべきである。市民は法への自発的服従に基づいて自由を生きる。この自由を妨げる政府は改革を求められる。人々は己の自由を発展させる責務を負い、その中で政府の改善を平和的に目指すが、政府が暴政をとどめえない場合には革命に訴えることができるが、その目的は法の支配の廃棄ではなく再確立である。

マフルはこうした思想がフランス啓蒙主義のみならず、スコラ主義やヘブライ=キリスト教思想の影響を受けていることを指摘する。デ=ラ=コスタはここで、むしろそれらは「カトリックの遺産」というべき、と加え、その根拠として、人間一人一人の神与の性質ゆえに一人一人に自らに対する主権があることを認め、それ故にルソー流の「全体意志」を否定したことを挙げ、これがキリスト教的な根拠なしにありえないと主張する。

よってここで、デ=ラ=コスタは、マフルの「彼ら改革者、革命家たちがその政治哲学をカトリックの教えから得たのではない」という主張に異を唱え、確かに意識的にではないにせよ、確かにカトリックの教えを前提として彼らの思想が展開されている、という。

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第二部のマロロス議会の論点に関する議論に先立ち、マフルは「教会と国家:歴史的序論、及び教会とスペイン人修道会に対する一般的態度」に関して、この章が革命家たちの反教会的な態度をよく描けていると評価しつつ、歴史を描くのであれば、当時の教会のありようや政治への姿勢、具体的な政治との関わり、また教会の存在が独立の脅威であったという恐れに対する実際上の根拠を歴史的に実証すべきであった、と問題を提起する。

そしてデ=ラ=コスタは、これらの問題に応えるのに当時の研究水準では困難が多いと応じる。例えば修道会司祭と一般住民の間の関係はおおよそどのようなものであったかを実証するとなると、確かにリサール一家がカランバ町で経験したような出来事こそ知られているものの、それが一般的な経験であったとする材料は見当たらず、マフルもそうした材料を提供し得ていないとする。よってマフルの記事では、反教会の立場であった革命指導者たちの主張は明らかになるものの、その背後にどのような現実があったのかの解明は進んでいない、と批評している。もちろん革命家たちの情熱、愛国者としての国民の間における権威を考えれば、彼らの主張が重んじられるべきであるということは理解できるが、それをうのみにするのは科学的な態度とは言えない、というのである。

その上で、デ=ラ=コスタは、革命家たちの訴えについての修道会士たちのスペイン政庁への反論書、さらに革命後にイエズス会士を戻すよう求める地方の請願書や、革命期における聖職者に対する庶民の強い畏敬の念を証言する文書の存在などを挙げ、革命家たちの文書だけを一方的に取り上げることの問題性を強調する。無論教会に有利な文書だけを取り上げて教会をやみくもに擁護することも不公平である、と加える。

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最後に第二部の政教関係に関する議会の論争についてのマフルの記事を、デ=ラ=コスタは最善のものの一つと称賛し、総じて優れた研究である、と結論付け、マフルの一層の活躍を願って終えている。

2015年8月8日土曜日

De la Costa (1958), "Review: The Inscrutable West: What Does The West Want?"

The Inscrutable West: What Does The West Want? Review Author: H. de la Costa, Philippine Studies vol. 6, no. 4 (1958): 470–473

この書評では、この書物を次のように紹介する。

冷戦の文脈で、共産主義側に対する「西側West」とは実のところ何であるのか。その本質が問われている。とはいえそれは一律には言いにくいが、先ずは平和を希求していると言える。

それは特に、目下対立している共産主義勢力との間の平和である。西側の考えからすると『共産主義』という考え方とは和解できるが、マルクス=レーニン主義のもつ独裁権力による支配は受け入れがたく、よって現に存在するソ連との平和は困難である。そうなると現下の冷戦、というあり方を余儀なくされるが、今後についてはソ連の具体的な当局者の態度次第の面もある。

また、アジアにおいて、新興独立国が西側と東側のどちらに付くかの問題があり、過去の帝国主義の歴史を考えると西側は不利である。西側は帝国主義を放棄し、アジアと対等な関係を築こうとしなければならない。「対等」とは異なる者同士が兄弟的な関係に入ることである。

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デ=ラ=コスタはここまで述べた上で、ではそのような兄弟的な信頼、愛の関係ということを語る根底にどのような基礎があるのか、と問う。「西側」においてどのような人間論があるのか、と。

もちろん、一人一人の人間と共に人類全体を価値づける基礎を論じるのは、一神論的、キリスト教哲学的であると言える。

2015年8月7日金曜日

De la Costa (1958), "Review: American Beginnings in the Philippines: Theodore Roosevelt and Catholics"Father Zwierlein

American Beginnings in the Philippines: Theodore Roosevelt and Catholics, Review Author: H. de la Costa, Philippine Studies vol. 6, no. 3 (1958): 348–358

これはZwierlein神父という人物が、フィリピンのアメリカによる植民地統治の開始に関わったセオドア・ローズベルト大統領とアメリカ、フィリピン両国からのカトリック教会関係者の間のやり取り等の文書の分析を中心にまとめたものであるという。内容ゆえもあるが、かなり詳細な、10ページを超えるレビューとなっている。紹介されている内容はおおよそ次の通りである。

ローズベルトの抱えた最大の懸案は、スペイン人修道会士の処遇であった。当時のフィリピン独立戦争の指導者たちは特に彼らへの反発が強く、アメリカは植民地統治をできる限り平穏に進めるためにこれらフィリピン社会のエリートに依存したため、必然的にタフト総督などアメリカの植民地当局は反修道会に傾斜し、スペイン人修道会士に退去を求めるのがよい、修道会領はアメリカ政府が購入し、当該地の小作農民に分配すればよい、と大統領に提言した。大統領は大筋合意した上で、当時外交関係のなかったバチカンにタフトを派遣し、この件を修道会を素通りして直談判するよう求めた。

これに対しバチカンは丁重に異議を唱え、修道会士の土地購入に異存はないが、それは各修道会と交渉するように求め、またスペイン人修道会士の退去は保証できない旨伝えた。この一連の対応はアメリカのカトリック教会関係者に憤激を巻き起こし、大統領は説明の必要を覚え、この修道会士への糾弾はおおむね正当であり、フィリピン人民が修道会を認容しがたいようなので、バチカンに対して、必要な補償はするのでおとなしく引き下がるようにさせてほしいと伝えたのだ、と説明した。

これに対し、セブとハロのアメリカ人の司教たちは、大統領が依拠している情報はひどく歪んでいる、と主張するようになった。彼らは、反修道会感情はあるものの、小教区司祭の空位を修道会士によって埋める要望があったり、在俗司祭たちもスペイン人修道司祭と関係が良好であったり、さらには大半の人々は修道会士に好意的で、引き続きの滞在を望んでいる、と上長に報告し、また大統領に書簡を送っている。これを踏まえて大統領は主張を引き下げ、また同時にその後数年の間に多くのスペイン人修道会士は自発的にフィリピンを去った。

修道会の土地問題は土地登記をはじめとするいくつかの問題が絡み数年を要した。バチカンはアメリカ人聖職者を送るようにとの要請には積極的に応え、アメリカ人の大司教、司教がフィリピンの教区に次々と立てられ、アメリカ政治に精通した彼らは特にカトリック教会から離脱して成立したフィリピン独立教会の施設の所有権の奪回を追求するようになった。これに対してアメリカ側は、当該施設の責任者が分離に関わった場合は政府は介入できず、民事で解決すべき、と応答した。

ハロ司教ルーカーはこれに、それでは訴訟の件数が多く、時間も費用も掛かり過ぎ、判事が独立教会に好意的なケースもある、宗教法人の土地収用を政府が行ったケースはあるので、この件でも不可能とは言えないはずと抗議した。セブ司教ヘンドリックは独立教会側が地方行政と結託し、脅迫によって小教区教会が奪取された問題を取り上げて抗議した。しかし政府は積極的に応じず、これに対しカトリック教会は訴訟に転じ、1907年の最高裁判所における勝訴に至る。

公立学校の設立に際しては、教会指導者たちは教員がプロテスタントの宣教、あるいは反カトリック思想の流布に携わることを強く牽制し、またカトリック国である以上学長の大半はカトリックとすべきことを求めたが、認められなかった。教員養成がアメリカのプロテスタントの学校で行われたこと、ペンショナドと呼ばれたフィリピン人奨学生が非カトリックの学校で学んだことも教会は問題視した。しかしアメリカ政府の反応は一貫して鈍かった。

しかしサマールにおいて、カトリック教会はカトリシズムへの脅威を理由として起こった「プラハン」の反乱に対し、彼らの主張は偽りであり、彼らの暴力を支持せず、アメリカは信教の自由を保障するのでカトリックの敵ではない旨アピールするなど、アメリカによる統治の安寧に協力してきた。

多少の瑕疵はあるが、大変有用な書物である、として書評を閉じている。

De la Costa (1956), "Jesuit Education in the Philippines to 1768"

H. de la Costa, "Jesuit Education in the Philippines to 1768", Philippine Studies vol. 4, no. 2 (1956): 127–155

タイトルの通り、フィリピンにおけるイエズス会による学校教育の導入過程とその内容について述べられている。

16世紀末に、イエズス会によるスペイン人子弟向けの教育機関の設置が求められ、資金面の問題や同時期にサントトマス学院を設立したドミニコ会との対立とその調停などを経て、初等教育から高等教育まで、またマニラから地方へと至る、イエズス会による教育諸機関の確立の次第が記される。またカリキュラムを詳細に紹介し、結部では19世紀に政庁によって導入された初等教育に比して劣るところがなかった、という点が強調されている。

2015年7月31日金曜日

De la Costa (1955), "Review: Democracy Survives Crusade In Asia: Philippine Victory" (by Carlos P. Romulo)

Democracy Survives Crusade In Asia: Philippine Victory (by Carlos P. Romulo), Review Author: H. de la Costa, Philippine Studies, vol. 3, no. 3 (1955): 317–319

書評。大戦、及び戦後の混乱や政治腐敗、共産主義の脅威の中をフィリピン民主主義がいかに生き残ったかについて、特に(名前を挙げていないがマグサイサイ)大統領のような新しいタイプの政治家の登場による信頼の回復について述べているという。デ=ラ=コスタは「新しいタイプの政治家」という時にロレンソ・タニャーダ上院議員についての言及がない点を挙げて問題視している。また、著者が述べるように私見を主観的に率直に述べるというのもよいが、客観的な記述を求める読者は期待はずれであろうし、自身としても歴史家としてはもっと冷徹な現実の叙述を求めたいところだ、と述べている。

De la Costa (1955), "Review: A First Printing: Ordinationes Generales" (by Fr. J. Gayo Aragón, O.P.)

A First Printing: Ordinationes Generales (by Fr. J. Gayo Aragón, O.P), Review Author: H. de la Costa, Philippine Studies vol. 3, no. 2 (1955): 214–216

1604年に初めて活版印刷されたとされる、フィリピンに赴任するドミニコ会士に対する指導書の復刻本についての紹介。資料の性格について簡単に紹介している。

デ=ラ=コスタのPhilippine Studiesの1954年投稿分の残りについて

Vol. 2, No. 4には
"A Marian Festival in Manila, 1619" (pp. 317-323)があるはずなのだが、リンクミスで別のものが出てきてしまう。残念ながらあきらめざるを得ない。

Vol 2, No 4 (1954)

2015年7月30日木曜日

De la Costa (1954), "Episcopal Jurisdiction in the Philippines in the 17th Century"

Horacio de la Costa, "Episcopal Jurisdiction in the Philippines in the 17th Century", Philippine Studies vol. 2, no. 3 (1954): 197– 216

 以下は主に、読書メモ、要約のようなものである。本来以下のような内容は既に頭に入っているのが望ましいが、お恥ずかしながらまだまだうろ覚えなので、勉強を兼ねて要約する。このトピックが耳新しい方の参考になれば幸いである。
 但し、最後に少し分析上の論点を思いつくままに挙げている。

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 フィリピンにおいて16世紀後半以降宣教が順調に進み、マニラ大司教区をはじめ教区の形成が順調に進んだ。これに伴い、トリエント公会議で定められた、司教の管轄権、具体的には原則として小教区を傘下の在俗司祭に当たらせること、及び修道会は当該地域の司教の指導下に服し、修道会司祭が治める小教区が定期的に司教の査察を受ける(但しあくまで小教区の管轄指導の適切性の問題に限り、修道会士としての適性等については管轄外)ことの実行が問題となった。

 フィリピンは16世紀においては宣教地であり、キリスト教布教には、アウグスティヌス会、ドミニコ会、イエズス会、フランシスコ会等の修道会が当たってきた。彼ら修道会、マニラ大司教、スペインの王権、総督府などの植民地当局の間には、宣教と統治をめぐる緊張関係があり、この教会管轄権問題はそことの関わりで重要な問題となった。

 特にデ=ラ=コスタは、一方でトリエント公会議において司教の小教区査察権が認められながら、その後スペイン植民地(具体的にはラテン・アメリカの植民地)においてその実行の困難が訴えられ、それを踏まえて教皇が特例を出したたため、教会法上の論争の余地が残ったことが、フィリピンにおける、修道会士が小教区司祭となっている小教区の管轄をめぐる、特に司教と修道会管区長の間の対立の背景にあることを指摘している。

 デ=ラ=コスタの一連の教会史研究の中でも、この問題は重要なものとして繰り返し取り上げられた。ここでは17世紀について二段階に分けて論じている。

<第1段階>

 1621年にマニラ大司教セラーノ(アウグスティヌス修道会出身)が提起した司教による査察権の主張に端を発する。
 セラーノは原住民から、修道会司祭による住民への不公平な取扱いがあるとの訴えを受け、査察の必要性を王に訴えた。翌年には、セラーノは教皇が出したという特例は暫定的で、王権のその後の意向の変化を踏まえれば今では無効であるとし、司教の監査権を押し立てて、マニラのディラオ小教区(現在のパコ)から査察を始め、住民に意見を募った。特に司教は司祭による財務・金銭管理上の不正や不法な社会慣行の許容などの告発が上がることを期待した。
 ディラオの司祭が査察を拒絶すると、司教は破門(陪餐停止)処分をもって応え、司祭がこれを拒絶すると監禁処分とした。ところがアウデンシア(王立最高司法院)はこれを支持せず、孤立した司祭は査察計画の撤回を余儀なくされたという。

<第2段階>
 以上の事態と関連のやり取りの中で、植民地当局は統治の維持のために、各地に派遣されスペイン統治を代表する修道会(士)の協力が不可欠と考え、司教の意向に加担しなかった。
 しかし他方で教皇庁はトリエント公会議の決定に基づいて教会の位階制的な統合を図る意向を強めており、修道会に対する特例も、宣教初期の段階が終われば速やかに終了とする意向を示していて、これがスペイン王権に影響を与えていた。 またスペインの王権も植民地統治の強化のため、修道会の自律性の高い管轄権は、王権による教会保護(パトロナート・レアル)の遂行上望ましくないと考えるようになった。但しフィリピンの植民地当局同様、本国も修道会の、特に地方における治安維持上の貢献を重く見、彼らを保持することを前提として管轄権を推し進めることを期待した。また小教区司祭を立てるに際し、王権保護の関与を求める法令を1624年に出している。
 しかしこれは実行困難であり、修道会の反発を受け、教皇庁は修道会の特権を破棄する勅令を1625年には撤回した。1629年には、司祭の任命が修道会の独断で進められていることを非難した王権は、司祭の任命に際しては3名の候補を総督府に示し、総督府がその中から選び、司教が承認するようにすることを命じた(1624年の命令の確認)が、修道会側はおしなべてこれを黙殺した。

 1654年には植民地政庁が、1624、1629年の命令を実行するよう促した。これに対して、各修道会管区長は、以下の理由で、王権には恭順するが命令は実行不能、と回答した。
 (1) 世俗権力者である総督が修道会士を任命することは修道会のあり方と反する
 (2) 言語の多様性故に、各言語ごとの修道士の数が限られてしまうため、小教区司祭が空位になった時に3名の候補者を立てることは困難であるし、他方でマニラ大司教が、自らが知らない地域の次期司祭として複数の候補を挙げた場合に、誰が一番適性があるか判断できないはずである
 (3) 修道会士は世俗の法廷に訴えることが出来ず、信徒などから訴えられた場合に一方的に裁かれかねず、不当である
 (4) 管区長が特定の修道会士の免職の理由を総督に報告することは管区長の活動の自由に反し、修道会士の名誉を傷つける
 (5) 合わせると、修道会士は複数の異なる上長(管区長、司教、総督)を持つようなことになり、混乱を免れない
 しかし今回は総督府は強硬で、従わない修道会への給金拠出を拒否し、マニラ大司教は査察を強行、拒絶した修道会士を追放した。これに対して管区長たちは全修道会のフィリピンからの撤退宣言を持って応えた。このにらみ合いは1655年に植民地政庁側が折れ、植民地協議会が、フィリピンの現状を踏まえて修道会側の立場を認めることで決着した。
 1697-8年にも再度マニラ大司教カマチョによる査察の試みがあったが失敗に終わっている。

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 歴史の叙述なので安易な価値判断を持ち込むべきではないだろうが、フィリピンの宗教性を論じる場合に、これらの過去が引き合いに出されることがあるから、論点だけでも挙げてみるとよいと思われる。

 恐らく最も重要な論点は、修道会士、(大)司教、植民地政庁、スペイン本国の主に四者を、フィリピンで支配を受ける庶民の観点からどう評価するかである。もちろん時代によっても、またフィリピンの中でも小教区ごとに事情は違ったのだろうけれども、ある程度全体的な絵をどう描くかは、歴史の現在への投影のような文脈の中で重要になってくる。

1)みんな悪者、というには、全体があまりに対立を、しかも住民の統治や利害をめぐる対立を繰り返している。

2)一方に、やがてフィリピン生まれの人々が加わるようになる在俗司祭(と彼らを監督し代表する大司教)の肩を持つ見方がある。

3)他方に、大司教と在俗司祭は植民地当局が影響力を行使するために操った駒であり、修道会こそ地道に宣教に献身し、人々を保護し、尊敬を受けてきた、という点を強調する見方もある。

4)そもそも教会の内紛自体が見苦しく、植民地当局が調停努力をした点を強調する見方もありうる。

5)フィリピン植民地内でのいわば利益の山分け競争に対し、本国がけん制している、という観点もありうる。

 この項目はすでに長いので、ここでは特にこれを統合しようと思わない。こうした様々のアングルがあり、歴史家の思想傾向やイデオロギー、立場が、こうした点のニュアンスをどう書くかの中に反映されやすいのではないか、という点だけを指摘しておく。

2015年7月29日水曜日

H. de la Costa(1954), Review: "Soviet Policy in the Far East, 1944-1951 (by Max Beloff)"

Soviet Policy in the Far East, 1944-1951 (by Max Beloff) Review Author: H. de la Costa, Philippine Studies vol. 2, no. 2 (1954): 180–183

同じ号にJohn Schumacher, "Rizal and Blumentritt" が掲載されている。

この書評によると、紹介されている本のポイントは次の通りである。

この本はヤルタ会談からサンフランシスコ条約までのソ連のアジア政策の一貫性を検証したものである。特にすべてはやつらの計画通り、という陰謀史観的な見方ではなく、ソ連も不測の事態への応答として外交を進めてきたという見方に立っている。総じて言えば、ソ連の極東政策は、一方で大国としての側面と国際共産主義運動の中心としての側面の緊張関係にありつつも、一貫した目標の下で、個別の状況に一定の柔軟性をもって合目的に対応したものといえる、とする。

デ=ラ=コスタは人文科学を修めたイエズス会士として、こうした時事的な問題についての発言も多い。著作集4巻のうち一つは時事問題に関する巻である。ここでは反共の立場からソ連の外交政策の現状分析を評価しようとしている。

2015年7月28日火曜日

De la Costa(1953), "Review: Asian Nationalism and the West, Edited by William L. Holland"

Asian Nationalism and the West (Edited by William L. Holland), Review Author: Horacio de la Costa, Philippine Studies vol. 1, no. 3 (1953): 280–283

アジアのナショナリズムに関する論集のレビュー。特にインド、ベトナム、マラヤ、インドネシアの独立ナショナリズムと共産主義の関係について紹介している。反共のトーンもあるが、アジアの独立ナショナリズムを尊重するトーンで紹介されている。共産主義者だけではないベトナムの独立運動をフランスが抑圧し、それをアメリカが支援することがかえって共産主義者の主導権を強める、との分析や、インドネシアにおいて共産主義者の冒険主義が反発を受けているにもかかわらず、反響の流れでアメリカにくみすることを拒むのは、過去の植民地統治及び独立戦争を踏まえた外からの影響への拒絶反応ゆえである、といった分析が示される。それが書評されている本のトーンなのか、それともデ=ラ=コスタのトーンなのかは分かりにくいが、おそらく両方なのではないかと思いつつ読んだ。

同じ年の論文のひたすら植民者の視点を教会の視点、そして自身の視点と重ねて読んでいく理解を思い起こすと、その両者が彼の中でどのように同居していたのかが少々興味深かった。

De la Costa (1953), "The Legal Basis of Spanish Imperial Sovereignty"

このブログは、フィリピンの主な歴史家のフィリピン観を調べるために用いるものとする。当面は、Philippine Studiesのアーカイブから、まずはHoracio de la Costaの書いたものを順番に読み進める。主に資料を整理する目的である。


植民地資料に基づき、主にラテンアメリカとの比較、また島嶼部東南アジアに関する当時の研究を参照しながら、エンコミエンダ制導入の問題に始まり、コンキスタドレスと宣教師の間の衝突と、中国との交易による利益確保の中での調停、といった流れに触れ、その中でスペイン帝国の植民地支配の大きな特徴としての神学論争的な性格を確認している。